夜行会有志で射水市無形民俗文化財黒河夜高祭を見てきました。

当日氏子の方に頂いたしおりに書いてあることを中心にメモがてら書いてみました。

黒河夜高の起源


黒河の夜高祭は、古い「夜高」という行事と「岩見重太郎伝説」と「俄(にわか)」の三つが江戸末期に一つとなって成立したものと言われています。

起源は1815年(文化12年)。

宇竹山の加茂社の本殿が建て替えられ、その遷宮のお祝いの5月5日の夜、村の子供達が夜高をし、当時の竹山の加茂社と村の西養寺の間を3回廻ったと伝えられています。

およそ200年前から始まった祭りのようです。

なお、黒河にとっての「夜高」というのは、火を高く掲げる火の祭りのことで、夜高く掲げて神を迎えるもので、古くから五穀豊作と無病息災を祈って行われていた農村に伝わる行事とのこと。

次に岩見重太郎伝説ですが。戦国時代の武将岩見重太郎が諸国を巡る修行の途中、富山で病気になり栗崎道庵の治療を受け全治しました。

その頃、黒河の黒田さんちの一人娘の千代が人身御供に差し出されると聞き、身代りになって遂にヒヒを退治したと言い伝えられています。

また、子供らが夜高行燈で竹山に行くのは人身御供の娘を神前(ヒヒ)へ送る風習の名残とも言われています。

最後に「俄」。俄は江戸から明治にかけて宴席や路上などで行われた即興の芝居のことで、踊りや芝居で政治や社会を風刺して楽しむものでした。

黒河の夜高の囃子唄「チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンザケニヨータヨータ」も俄の一つで、その意味は「面白く楽しい俄だ、今即興に思い出した俄を演じて、少しばかりの酒に酔うて、快く楽しんでいるところだ」だそうです。

少し洒落の効いた唄のように思えます。

現在の黒河夜高

現在は以下の流れで行われている。

  • 夕方6時半頃に各地区の夜高が黒河コミュニティセンター前に集合し、街の中心部を一往復。昔は神社などを廻っていたとのこと。三往復はしてない。
  • 巡行が終わったら、式典(市長、商工会会長、市議会議員等の来賓挨拶)。
  • 寸劇「岩見重太郎のヒヒ退治」
  • 9時閉会(蛍の光が流れる)

また、当日は「岩見重太郎商店」でかき氷は振舞われていました。

また、氏子の方と小杉爆笑劇団の方がこちらの質問に丁寧に答えてくださいました。ありがとうございます。
参加している町内は1区(138世帯)、2区(70世帯)、3区(66世帯)、4区(116世帯)、5区(71世帯)、新星町(53世帯)、東太閤山(292世帯)の7つ。
祭りはやはり子供達中心のため主に児童クラブで実施しているようで、児童の多い町内会は140名程度に比べて、少ない町内会は5,6名と差が激しい。砺波と同じ課題を抱えているのだろうと思います。

 

かつての黒河夜高

戦前までは少年団(今の小学4年~中学2年)が中心に行っていた。

戦後一時中断したが、昭和40年頃までは、児童会の子供達が中心に黒河神社の春の宵祭に、手に手に「ヨータカ」行燈を持って神社前に集合し、大行燈を先頭に神社と西養寺の鐘楼の間を「チョーサイタニワカ ゴモンザイタニワカ サンモンザケニヨータヨータ」と囃しながら五穀豊年と無病息災を願って3回廻っていた。

昭和48年衰退しつつあった「ヨータカ」を地域活性化の中核と捉え地区を挙げて4月8日夜に盛大に行った。翌年昭和49年に実行委員会を組織し、8月23日の地蔵盆の夜に行うよう変更し、現在に至る。


きららか射水観光NAVI 黒河夜高祭